猫本書評:豚にも歴史はありますし、猫にも歴史はありますよ
戦国時代の百姓のことを卒論のテーマにしようと指導教官に話したら「百姓に歴史はありますか」「豚に歴史はありますか」と返答された逸話は歴史学界隈では古くより知られ、事象発生から約95年の時を超えて現在にまで伝わるパワーワードとなっているのは、猫の歴史にお詳しい読者諸兄にはご承知のことかと思います。蛇足とは存じつつも念のため件のエピソードを引用いたしましょう。
そんな気持で卒業論文の申告と認定のような慣行ということで、平泉澄助教授の宅によばれて一人ずつ計画を述べたのが二年生の終りのころだったろう。(中略)博士になりたてで助教授に新任という意気あがる新進学徒は、学生時代に森戸事件が起るや、その友森戸派の闘士として活動したこともあるというばかりか、それが自慢であったということで、何かうさんくさい感じはしていたものの、それほどとは思わず神妙に計画を申しあげた。
大した計画があるはずもないから、漠然と戦国時代の百姓のことをやるつもりだというだけのことだ。それを聞いていた彼は、静かに「百姓に歴史はありますか」と反問した。意表をつかれて私は一瞬とまどって沈黙していたのだが、すると彼は重ねて、いやに静かに「豚に歴史はありますか」ときた。とまどいはなくなっていたが、私は答える必要はないと断じた。(中略)あれは不許可の意志だろうということで、帰途の同級生たちの意見は一致した。中村吉治『老閑堂追憶記<社会史への歩み 1>』より
「豚に〜」といった方からすれば「そんなテーマは指導しないしできないし」との意図を端的に表現しただけだったのかもしれませんが、いわれた方はしっかり覚えていたわけです。
その後、卒論は無事に提出され、口述試験が行われた時のことも中村吉治氏はしっかり記録されておりました。
一九二九(昭和四)年、私は東京帝国大学文学部国史学科を卒業した。(中略)前年末に卒業論文を出したあと、気の抜けた正月を過ごして本郷にもどったが、職のあてもなく、ふやけた毎日を送っていた。(中略)それからしばらくして口述試験があった。黒板勝美・辻善之助・平泉澄の三先生が並んでいた。黒板先生は私の論文の目次をみながら、古代律令兵制を知っているかと問い、返事もまたずによしといい、次いで平泉助教授は大日本史は読んだかと問い、これも返事もできぬうちによろしいとあった。論文は読んでいない。
中村吉治『学界五十年<社会史への歩み 2>』「昭和初年の歴史学界とわたし –『大乗院寺社雑事記』校訂のころ–」P5〜6
1960年代〜1970年代にこのエピソードが方々の雑誌で掲載されてから、「豚」のエピソードは歴史学界隈に広まり、20年くらい前に学生だった私でさえも指導教官からこの逸話を聞かされるほどに膾炙したのであります。ただし、「豚」のエピソードの根幹にあった「政治史=文化史(社会史)」という平泉氏の認識は当時においても多数派ではなかったようです。
さて、この話にはまだ続きがあるのをご存じでしょうか。アンサーソングならぬアンサー論文があるのです。『歴史と地理』(430号 1991年6月号)に掲載された「ブタにも歴史があります」という題の塚本学氏の論文です(塚本学氏の著書『江戸時代 人と動物』に所収)。歴史上における野生の「イノシシ」と家畜の「ブタ」との混同論から始まり、「ブタ」の呼称の初出文献が室町期にさかのぼること、ブタの飼育の痕跡は弥生期遺跡出土の骨からうかがえること、ブタの卑賤視の歴史的経緯など、ブタの歴史をきっちり踏まえつつ結語に次のように記されております。
平泉先生、ブタにも歴史があります。ブタとヒトとはむろん違いますが、ブタの歴史は、ヒトの歴史を見事に反映しています。そこを理解できないのは、ただ、われわれの怠慢と視野の狭さにだけよります。
「ブタにも歴史があります」P151〜152(塚本学『江戸時代 人と動物』)
豚に歴史はありますか、ブタにも歴史はありますよとのコールアンドレスポンスが成立するからには、猫だって黙ってはいられません。
「猫にも歴史はありますよ」と高らかに謳うかのような、猫本ブームが一段落した令和の世に颯爽と登場した一冊が真辺将之氏の『猫が歩いた近現代 ―化け猫が家族になるまで』であります。
猫の歴史における難題は、史料の少なさのみならず偏向の激しさであります。ややもすれば猫好きが残した史料だけで歴史が構成されてしまいかねません。真辺氏も次のように記しています。
史料=人間の記録をもとに歴史を描けば、それは必然的に猫との関係を人間の側から見たもの、言い換えれば、人間の猫に対するまなざしの歴史にならざるをえない。猫の歴史が猫に対する人間のまなざしの歴史だとするならば、猫に興味がないとか、猫が嫌い、ということもまた、「猫の歴史」の一部分ということになる。
真辺将之『猫が歩いた近現代 ―化け猫が家族になるまで』P1
猫の飼い主を「猫好き」だと比定すると、東京都福祉保健局が平成29年度に行った調査では、東京都の猫の飼育世帯率は11.5%。一般社団法人ペットフード協会が令和2年に行ったインターネット調査では、全国の猫の飼育世帯率9.60%と、いずれの調査でも約1割にすぎません。
残りの約9割は猫が嫌いだったり、猫に興味が無い層だったりという可能性が高く、これだけ猫の飼い主が増えた現在ですら少数派なのですから、日本の歴史上においては「猫好き」がどれほどに異端でありマイノリティーであり変わり者だったかは、察するに余りあります。
国内最古の猫日記を『寛平御記』に記したとして猫好きから畏敬の念を集める宇多天皇を例に取れば、当時において室内で少なくとも5年に亘って猫を飼育でき、猫に朝晩乳粥を与えられ、断片的とはいえ現在にも伝わる日記をしたためられ、なおかつ「猫好き」ですから、何万回ガチャ回せば出てくるんだレベル、SRどころかSSSSSRでありましょう。
見方を変えれば、1200年前には天皇クラスでしか体験できなかった猫との生活を、現代人は手に入れたともいえます。それでもやっぱり少数派は少数派。猫をそんなに好きじゃない人、猫に興味のない人がどう猫を認知したか。この側面が無ければ、猫の歴史を記述したとはいえないのであります。
歴史学における猫の研究は、まだまだ緒に就いたばかりどころか、通史さえも管見においてはまだない状況かと思われます。その混沌とした状況下に、脂の乗った世代の研究者によって、緻密に集められた猫関連史料が時系列にまとめあげられた、待望の猫の歴史の通史が出版されたわけです。猫の歴史界隈ではまさに画期的な業績といっても過言ではありません。
近代以前の江戸後期から、明治、大正、昭和、そして平成、令和の現代へと至る猫に関する膨大な史料からは、猫に近しい人でありなおかつ書物記録類を書き残せた人による個人的な猫へのまなざしや記述から、徐々に新聞記事や社会事象として取り上げられた猫の記録へと、時代とともに変化する様子が見て取れます。この膨大な猫に関する史料を時系列に沿って眺めることで、猫ブームが昔からどうしたとか、古来から猫は愛され続けてきたとかいう恣意的で偏狭な猫の歴史観から解放され、やっと私たちは「猫の歴史」という名の道を、初めて歩けたような気さえするのであります。
猫を愛する読者は、息をつく暇もなく次々と猫の史実を吸収し、近現代史における猫の歩みを追っていきます。小林秀雄の文章がなぜ読む者を惹きつけるかといえば、「俺はこの対象が好きでたまらないのだ」という思いが発露された文章が、熱狂したいんではなく熱狂している人を見たいとのニーズに合致しているからであります。
本書の読み心地もこれに似ています。猫が好きで好きで史料上の猫を追いかけ続けた研究者の静かな熱狂に引きこまれていくのです。
あとがきによると、執筆用のメモ書きは実に40万字、最初の草稿時点でも20万字、泣く泣く4万字を削って本書の完成を見たというエピソードからも、その熱量がうかがい知れるでしょう。つい先日重版がかかったのも、これまでの猫の歴史本に無かった「史料に裏打ちされた通史」を求めていた人が数多いる証拠であります。
しかし、豚をテーマとした歴史論文は数あれど、猫に関する歴史論文は大変に少ないのが現状であります。
例えば、動物と人間との関係を通史としてまとめた吉川弘文館『人と動物の日本史』シリーズでは第一巻「動物と考古学」で猫のコラムが5ページ載っているばかりで、「ブタと日本人」と題された10ページの小論の掲載されたブタをはじめ、犬や馬などとは、扱いの差と研究蓄積の差は歴然たるものがあります。
そこで今後の道標にしたいのが冒頭に紹介した中村吉治氏による次の一節です。岩手県煙山村での1951年7月から55年までに及ぶ調査から生まれた923ページの大著『村落構造の史的分析 −−岩手県煙山村−−』の、冒頭部分、総論の節にこんな言葉がありました。
農村の構造を歴史的に分析して、いわゆる村落共同體の本質を探りだそうというのが、ここでわれわれが意圖した煙山村調査である。(中略)村のいろんな問題を重ねて見て、つまり村をいろんな角度で分析してみて、その結果として村の本質を知り、どういうものを村といっていいかを確かめるために、今までそれぞれに行われてきた諸問題を一つの村ですべて調べようと計畫した。
中村吉治『村落構造の史的分析 : 岩手県煙山村』(P1、P6)
「村」を「猫」に置き換えるとどうでしょう。「猫のいろんな問題を重ねて見て、つまり猫をいろんな角度で分析してみて、その結果として猫の本質を知り、どういうものを猫といっていいかを確かめるために、今までそれぞれに行われてきた諸問題を一つの猫ですべて調べよう」とするのが、われわれ猫を愛する日本人に課された試練であり、あまたの試練を超え、多くの屍を乗り越えた先に見えるのが、「猫」および「猫と関わる人間」を主語とした、すなわち数多の人が補するのに明らかにされていない「猫の歴史」なのであります。
時代に左右されない「猫の本質」と、どういうものを猫といっていたかという「移り変わる猫と人間との関係性」というレイヤーを通じて初めて得られる、まさに猫の目のように変わりゆく猫の歴史の変遷が、上代古代中世近世のすべての時代を通じて明瞭になる日を願うとともに、その先鞭を付けた本書に敬意を表したいと思う次第です。
【参考文献】
中村吉治『老閑堂追憶記<社会史への歩み 1>』『学会五十年<社会史への歩み 2>』(刀水書房 1988年)
中村吉治『村落構造の史的分析 −−岩手県煙山村−−』(日本評論新社 1956年)
夏目琢史「日本史学史における社会史研究(1)10世紀前半の日本社会史研究の軌跡」(『日本社会史研究』100号 2012年12月)
塚本学『江戸時代 人と動物』(日本エディタースクール出版部 1995年)
東京都福祉保健局「東京都における犬及び猫の飼育実態調査の概要(平成29年度)」
一般社団法人ペットフード協会「令和2年 全国犬猫飼育実態調査」
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